たかの特撮ブログ

特撮ブログです。
ウルトラシリーズを軸に
特撮関連の記事を書いています。

    カテゴリ:ウルトラマン > ウルトラマン80

     2020年、40周年となる『ウルトラマン80』。今回は第8話「よみがえった伝説」に出てくる「光の巨人」について。


     3000年前、日本各地に現れ人々を捕食した怪獣タブラ。突如現れた「光の巨人」がタブラを倒し、石倉山に封印したという。劇中の回想で出てくる「光の巨人」は文字通り光り輝いていた。


     この撮影では、80の予備のスーツが使用された。当初はスーツ全体を白く塗る予定だったが、撮影担当の大岡新一のアイデアで、全身を光らせる手法が模索された。光の反射を作り出す反射素材用スコッチライトテープでスーツをぐるぐる巻きにしたのだ。しかし、一回の動きでスコッチライトの素材が剥がれてしまうため、スタッフは何度もテープを巻き直したそうだ。大変な作業の末、なんとか撮影を終えたものの、テープの接着剤が剥がれず、スーツを駄目にしてしまったという。


        よく見るとぐるぐる巻きのテープの隙間が所々光っていないのが分かる。

     もともと満田かずほプロデューサーの提案で始まった「光の巨人」の登場だが、
    撮影の仕上がりもあまりよくなかったため、大岡新一にとっては苦い思い出となっているそうだ。


    因みに、
    大岡新一(1947年生~)は慶応大学法学部中退後、1969年に円谷プロダクションに入社。撮影助手として『帰ってきたウルトラマン』などの作品に参加し、『レッドマン』でカメラマンデビュー。一度フリーになり、映画『ULTRAMAN』(2004)を最後に撮影から離れ、制作統括という立場になる。2008年から円谷プロの代表取締役社長を務め、2017年からは社長の座を譲り相談役となっている。

    cf.)『ウルトラマン80』総論はこちら→http://ultra-7.blog.jp/archives/6276509.html

    [参考]
    『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』DeAGOSTINI.編©TSUBURAYA PRODUCTIONS
    https://ja.wikipedia.org/wiki/大岡新一
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     今年(2020年)で40周年の『ウルトラマン80』、その怪獣たちのほとんどをデザインしたのは、当時、円谷プロに籍を置いていた山口修である。

     長野県松本市出身。円谷プロの『ウルトラセブン』のアルバイトに端を発し、美術スタッフとして『怪奇大作戦』、『ファイヤーマン』、宣弘社の『シルバー仮面』等に参加、池谷仙克の指導を仰いだ。以後『スターウルフ』『恐竜大戦争アイゼンボーグ』を経て、『ウルトラマン80』の美術デザイン全般を担当した。 

     山口修は、作品全体のカラーを統一し、ウルトラマン80からUGM隊員のスーツまで、各デザインの最終的な仕上げに携わっていた。

    また、怪獣デザインだけでなく、当時若手であった造形担当の若狭新一の才能を評価。頻繁に制作現場を訪れては細部にわたり指示をし、着ぐるみが完成するまでの監修も務めた。


     デザインに関しては、当時の専門誌に、「グロテスクや刺激的なものにならないように作っています。また、シナリオの設定を生かし、生き物らしさを失わないようにするのが、一番大切なところです」と語っている。

     『80』終了後は、1984(昭和59)年公開の映画『ウルトラマン物語』および同時上映『アニメちゃん』の美術担当として円谷プロ作品に参加している。


     その後は、2004(平成16)年に公開された『世界の中心で、愛を叫ぶ』など、多くの作品を手掛け、日本映画界を代表する美術デザイナーとして活躍している。

    因みに、
    帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンA』の美術デザイナー井口昭彦長野県松本深志高等学校での先輩にあたる。

    cf.)『ウルトラマン80』総論はこちら→http://ultra-7.blog.jp/archives/6276509.html

    [参考]
    『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』DeAGOSTINI.編©TSUBURAYA PRODUCTIONS

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    また、若狭新一は日本映画怪獣造形専門の彫刻家特殊メイク師、モンスターズ代表取締役である。

     『ウルトラマン80』は矢的猛が中学校教師とUGM隊員を両立しながらヒーローとして戦うという先生編から始まるが、途中からパッタリと中学校が出てこなくなる。今回はその理由について。


     矢的猛が通う「桜ヶ丘中学校」は、東京都世田谷区に存在するという設定。だが実際に撮影に使われたのは保谷市(現在の西東京市)にある市立青嵐中学校という場所だった。

     平日や土曜は撮影に使用できないため、日曜や祝日に撮影が行われ、校舎内にある教室・職員室・校長室などがそのまま使われた。しかし、やはり週一の撮影ではスケジュールを消化するのが難しく、第12話「美しい転校生」を最後に、青嵐中学校でのロケは終了し、物語はUGM編へと移行することになったのだ。

     なお、「学園もの」にする案はもともとTBSからの意向であった。番組終了後、当時の円谷プロ社長の円谷皐が平均視聴率が『レオ』を下回り10.0%に終わったことをTBSに抗議したため、両者の関係が悪化し、TVシリーズ製作は一旦打ち切られてしまった。

     因みに、青嵐中学校は第48話「死神山のスピードランナー」で、青嵐ではなく「青雲中学校」として再び使われている。現在も同じ場所にあるが、2007(平成19)年4月に新校舎に建て替えられたため、当時の面影はもうない。なお、『ウルトラマンメビウス』第41話「思い出の先生」で登場する「桜ヶ丘中学校」は別の学校の校舎である。

     わずか1クールで終わってしまった先生編だが、多くの人の心に矢的猛のさわやかで元気な先生像が今も焼き付いて離れない。今後同じような設定のウルトラマンは現れないだろう(『ウルトラマンギンガ』(2013)では田舎町の小学校が舞台となっているが、教師や生徒が多数出てくる学園ものというわけではない)。

    cf.)『ウルトラマン80』総論はこちら→http://ultra-7.blog.jp/archives/6276509.html

    [参考]
    『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』DeAGOSTINI.編©TSUBURAYA PRODUCTIONS
    https://ja.wikipedia.org/wiki/ウルトラマン80
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     2020年は『ウルトラマン80』40周年。今回はオオヤマキャップを演じた故・中山仁について。

     ウルトラマン80に変身する矢的猛のよき理解者であるUGM隊長・オオヤマ一樹役を演じた故・中山仁は1942(昭和17)年9月25日、中華民國・北京生まれ、東京都出身。早稲田大学第一政治経済学部政治学科を中退後、劇団「文学座」付属研究所で演技を学び、1965(昭和40)年に劇団「NLT」に入団すると、同年、『乱れる』(フジテレビ系)でデビューした。1968(昭和43)年に「NLT」を退団すると、作家の三島由紀夫とともに劇団「浪曼劇場」設立に参加。同年、俳優・寺田農の実妹・寺田史と結婚。その翌年には、大ヒットドラマ『サインはV』(TBS系)で、バレーボールチーム監督・牧大介を演じ、一躍人気を獲得する。

     1978(昭和53)年には、円谷プロが制作したドラマ『土曜ワイド劇場 怪奇!巨大蜘蛛の館』(テレビ朝日系)に出演。このときのことを覚えていた円谷プロの満田かずほが、のちに『ウルトラマン80』のプロデューサーとなった際、「隊員は無名でもいいから、隊長クラスには、あの人か!とわかる人を置こう」と考え、中山に出演を交渉したという。快諾した中山は「(視聴者の)子どもたちに、この作品を通して、何かを残せればと思い引き受けた」と語っている。


    その後も、映画・TV・舞台と活躍を続け、1990(平成2)年公開の映画『ウルトラQザ・ムービー 星の伝説』(松竹)に一の谷博士役で出演し、10年ぶりにウルトラシリーズへ復帰した。

    2019年10月12日に肺腺癌で亡くなった(享年77)。


    『80』を振り返って、こんな言葉を残している。

    「放送当時に、子どもたちから『隊長だ!』と言われたときは、嬉しかったですね。それまで、そんな経験なかったですし、変に照れ臭かったですね。今ではその方たちが、映像プロデューサーやスタッフになっていて、撮影現場で、『80』を見ていたと言われるんですよ。この作品をやっていて、本当によかったと今でも実感していますし、僕なりに何か残せたと感じてます」


    スッと背筋の通った姿勢と広い肩が印象的で、包容力を感じさせるオオヤマキャップ。ウルトラシリーズの隊長陣の中でも上品さが際立っている。ロマンスグレーという言葉がよく似合う人だった。

    cf.)『ウルトラマン80』総論はこちら→http://ultra-7.blog.jp/archives/6276509.html

    [参考]
    『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』DeAGOSTINI.編©TSUBURAYA PRODUCTIONS
    DVD『ウルトラQザ・ムービー 星の伝説』(1990)©松竹/セガ/東北新社/円谷映像
    https://ja.wikipedia.org/wiki/中山仁

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     『ウルトラマン80』(1980)で80(エイティ)に変身する主人公・矢的猛を演じた長谷川初範は、1955(昭和30)年6月21日に北海道紋別市で生まれる。

     1975(昭和50)年、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演劇科に入学。在学中に「長谷川憬」の芸名で『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(テレビ朝日系)や『俺たちの祭』(日本テレビ系)に出演し、卒業公演の舞台で主役を務めて注目される。

     卒業後、本名の「長谷川初範」として1978(昭和53)年のドラマ『飢餓海峡』(フジテレビ系)にて本格デビューを果たす。次にレギュラー出演した1979(昭和54)年の『熱愛一家・LOVE』(TBS系)における好青年ぶりが当時プロデューサーだった野村清の目に留まり、『ウルトラマン80』の主役候補として面接を受けることになる。

     このとき、円谷プロの満田かずほプロデューサーも『熱愛一家・LOVE』で長谷川初範の母親役だった故・森光子から推薦を受けていた。名女優の推薦もあり、面接の翌日に決定。しかし、当の本人は何のドラマかまったく知らずに面接を受けており、その終了間際で初めて80のオーディションであることを知ったという。

     長谷川は『80』出演後、「長谷川ショパン」の芸名で活動するが、1990(平成2)年再び本名へと変更。その翌年に放送された『101回目のプロポーズ』(フジテレビ系)で演じた、主役の恋敵の好演が脚光を浴び、以降数々の作品に出演。現在に至るまで多彩な活動を続けている。


     放映当時、特技に剣道二段(現在は三段以上)とあったことから、放映前の番宣スチールでは竹刀を構える剣道着姿が撮影されている。他にも、杖道初段、居合道一級、レスリングやシューティング、空手にも長け、バスケットボールでは実業団チームの選手として全道大会出場経験もある。さらにスキーも一級で、その腕前は第46話で確認できる。しかし、そんなスポーツ万能の長谷川氏も『80』出演時はカナヅチで、第32話での海に入るロケでは苦労したそうだ。

    cf.)『ウルトラマン80』総論はこちら→http://ultra-7.blog.jp/archives/6276509.html

    [参考]
    『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』DeAGOSTINI.編©TSUBURAYA PRODUCTIONS

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